太宰治の短編小説『待つ』。
語り手である二十歳の娘は、毎日駅のベンチに座り、誰かを待っています。
しかし、その「誰か」は最後まで明かされません。
- 誰を待っているのか?
- それとも作品自体が何かを象徴しているのか?
この記事では
- おさらいとして簡単にあらすじを解説後、
- 「誰を待っているのか?」を考察していきます。
太宰治『待つ』のあらすじ

20歳の「私」は、毎日小さな駅に人を迎えに行く。
誰ともわからない人を。
ベンチに座っている私に話しかけてくる人がいると、息が詰まる。
私は人間が嫌いだ。世の中が嫌いだ。
家で縫い物をしている時間が一番楽だが、大戦争が始まってからは家でそうして過ごすことにも罪悪感を感じる。身を粉にして働くべきなのではないか。
しかし家以外に行くところなどなく、毎日駅に来て誰かを待っている。
いや大戦争は口実で、私は不埒な計画を実行しようとしているのだろうか?
誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。
けれど胸を躍らせて待っている。
私を忘れないで下さいませ。
駅の名をお教えしなくても、あなたはいつか私を見掛ける。
【考察】私は誰を待っているのか?
語り手である私すら理解していない待ち人の正体。
ここからは個人的な解釈や、他の人が語られていた解釈をお伝えしていきます。
淡い恋をしている相手ではないか?

私が読了してイメージしたのは、淡い恋・片思いをしている相手ではないか?ということです。
まず気になった個所が「お友達。いやだ。」という部分。
旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。
この文章が「旦那でも恋人でもないけど、お友達扱いは嫌な相手」という意味なら、戦争に行っている片思いの相手説はあると思うのです。
まぁ、「私は人に会うのが嫌で自分からお友達にも会いに行ってない」とも書かれているので、単に「女友達と鉢合わせてしまうと気まずい」という意味かもしれませんが……
それでもやはり、この短編は恋愛を想起させます。
「私はみだらな女なのかも」「不埒な計画」「けしからぬ空想」
太宰の時代だと、「みだらな」「不埒な」「けしからぬ」は現代の性的な意味より広義で使われていたらしいのですが……
それでも駆け落ちとか愛の逃避行なんかを想像してしまいますね。
たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。
ここもそうです。やっぱり恋といえば秋冬より春夏の爽やかさです。
ではこの相手がなぜ「誰ともわからぬ人」になるのか?
これは「戦死して帰ってこない場合に備えて、心に無意識に蓋をしている」などが考えられます。
あるいは恋心自体が「昔の淡い思い出」で、「会ってみないと今だ本当に恋をしているのかわからない」だとか……
想像によっては一気にロマンチックな短編になりますね。
希望や幸福(戦時における救い)説

また、待っているのは「明るく希望に満ちたもの」ではないか?という解釈もあるそうです。
「春のようなもの」「青葉」「五月」「麦畑を流れる清水」……戦時中の物々しい空気ではなく、清々しい空気を欲しがっている。
その空気を擬人化して「待っている」と言っているのではないか?
ならば、私の胸の中でちろちろ燃えている「不埒な計画」とはなんでしょうか?
「戦争なんかやめよう」と公言することだったり……
もしかしたら自分だけこの空気から逃れるために、ホームから線路に飛び込むことかもしれません。
孤独を埋めてくれる「誰か」説

若干、対人恐怖症の気がある「私」。
なのに「胸を躍らせて」誰かを待っています。
ならこの「誰か」の人物像は、「取り繕った挨拶なんてしないような、私が心を預けられる人」ということになります。
ベンチに座っている「私」の心に寄り添ってくれるような。
最後の一文
お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。
これは読者に対して言っているようにも聞こえますし、「私」が想像上の人物に呼び掛けているとも考えられますが……
どちらにしても、怖いけど人とつながりたい。
見つけてほしい……見つけてくれると信じている。
そのような願いにも思えます。

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