宮沢賢治著作『貝の火』。
子兎・ホモイに与えられた宝玉『貝の火』は、ホモイが悪事を重ねてもより輝き、そのことにホモイは慢心していきます。
なんでそんな仕様に…?
この記事では、
- 貝の火の簡単なあらすじ
- 貝の火の、物語上の不思議や謎について考察
- 貝の火のモデルについて
をお届けします!
目次
貝の火の登場人物とあらすじ
主な登場人物
物語を左右する、重要どころの登場人物だけを紹介します。
ホモイ | 無邪気な子兎。故に宝珠の所持者を敬う動物たちに簡単に影響され、狐にたわいなく騙される。 |
狐 | ホモイをおだてながら悪事をそそのかす |
ホモイの父 | ホモイを叱り、慰める。人格者。 |
あらすじ
子兎のホモイは川で溺れたひばりの子を助け、鳥の王から美しい宝珠『貝の火』を贈られました。
貝の火は保持するのが難しく、一生持ち続ける事が凄いこととされています。
ホモイは皆に敬われ、大将になったと慢心していきました。
仲良しのリスや子馬を召使いにしても、貝の火は輝きを増すばかり。
しかしある日突然、貝の火は曇りだすのです。
ついに6日目には白い石のようになり、砕けた貝の火。
粉が目に入ったホモイは失明し、ホモイの目が白い石のようになってしまいました。
そんな危ないモノお礼にくれるなよ…
一方、貝の火は再生して飛び去りました。
ホモイの父親は「体験から学んだのは幸いだ」と息子を慰めます。
考察
ここでは貝の火の物語において不思議な箇所を考察していきます。
【なぜ?】悪事を働いても輝く貝の火
この物語の一番の特徴は、「ホモイの心が曇れば貝の火が曇る」わけではないという点です。
むしろ悪事の後にも美しさが増す描写があり、それがホモイの慢心を増幅させました。
厳格な父親ですら、「貝の火が美しいなら大丈夫なのか…?」と、強く諫めることができませんでした。
何故このような描写をしたのでしょうか?
実は賢治のメモが残っています。
「因果律を露骨ならしむるな」
どういう意味なのか?
現代語訳すると、『因果関係をあからさまにしないようにしろ』。
因果律とは『因果関係』。原因のない事象は存在しないという考え方です。
つまり、「ホモイの心が曇ったから、宝珠も曇る」……そんなあからさまな表現はダメだと賢治は言っています。
そもそも、持ち主の心に関係なく鉱物は美しいものです。
では露骨ではない因果関係はあるのか?ということですが、『貝の火の輝きは、ホモイの父親の心に関係している』という説があります。
ホモイの父と貝の火に因果関係!?
ホモイの父親は正しく、厳しい人でした。
狐におだてられて愚かな行動をとる息子・ホモイの行動を、逐一厳しく叱っています。
例えばこのような感じです。
- 鈴蘭の実をたくさん採ってきたホモイに対し、「食べる分だけにしろ」的な事を言う
- ホモイが貰ってきた『狐が盗んできた角パン』を、食べずに踏みにじる
しかしながら、ホモイが何をしても曇らない貝の火に、曇り始めるのは父親の自信でした。
ある日、気のせいとも見れるような一点の曇りを見せた貝の火。
それを家族ぐるみで磨いていたため夕飯づくりを忘れていたホモイの母は、
「鈴蘭と(狐からの)角パンを食べよう」と提案し、父親は「それでいいさ」と了承してしまいます。
するとその日の夜中、燃えているようだった貝の火は、鉛玉のように代わっていました。
父親が正しさを曇らせたところで、貝の火が明確に曇った。
これが、賢治の忍ばせた「因果律」ではないでしょうか?
つりがね草は最終警告か?
そしてもう一つ、この作品で深読みしたいところがあります。
それは物語の中で何度も登場する植物『つりがねそう』。賢治特有のオノマトペで音が鳴ります。
通常は
「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン。」
しかし一カ所表記が
「カンカンカンカエコカンコカンコカン。」
となっている箇所があります。
句読点が無い…
これは「僕は生まれつき貝の火と離れない」と、ホモイが慢心を極めた次の朝のこと。
そしてこの日、貝の火は一点の曇りを見せ、ホモイ達は角パンを食べてしまい、夜中に貝は鉛玉のように……と事態が急に悪化しました。
句読点の無いつりがねそうの音は、露骨ではないところに表現された最終警告ではないでしょうか?
宝珠『貝の火』のモデルはオパール
モデルの宝石はファイアオパール
それはとちの実位あるまんまるの玉で、中では赤い火がちらちら燃えてゐるのです。
鉱物に詳しい宮沢賢治。
今回モデルになったのはファイアオパール(和名:火蛋白石 )です!
珪酸を主成分とするファイアオパールですが、水を含んでいる為保持が難しいという性質があります。
見た目の美しさだけでなく、鉱石の性質まで物語に取り入れられています。
如意宝珠から着想!?
純粋さ故、狐にはめられて悪事の片棒を担がされるホモイ。
しかしホモイがやらかしたことに対し、罰(失明)が大きすぎる気がします。
これは貝の火が日常的な善悪ではなく、宗教的な精神を求めているのではないか?ともとれます。
賢治は熱心な法華経の信者でした。
故に貝の火は如意宝珠(別名:魔尼宝珠)からの着想ではないかと言われています。
如意…つまり「全てを与え、あらゆる願いを叶える」宝珠。
しかし心が清浄でなければ、仏の声を聞くことはできない。
そう考えると厳しい罰も納得できますね。
まとめ・感想
宮沢賢治『貝の火』についての考察をまとめると
ということでした。
勧善懲悪でないのが面白いお話です。
宝珠を得ても幸せになるわけではなく、寧ろ惑わせ間違わせる…
金や宝はいつの時代も生き物を狂わせるという皮肉でしょうか?
ですが決して宝石や鉱物がそれを望んでいるわけではありません。
鉱物はいつ何時も美しく、見るほうが勝手に惑わされているだけ…
とはいえ賢治の求めるレベル・自制心というのも高すぎるような…
宗教色が混じっている物語と、認識して読む事をオススメします。
賢治の魅惑的な宝石表現が必見の作品です!
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