この記事では「青少年読書感想文コンクール」2025年の課題図書にもなっている
『「コーダ」のぼくが見る世界 聴こえない親のもとに生まれて』(著者:五十嵐大)の
- 内容の要約
- 個人的読みどころと感想
をお届けしていきます。
この本には作者の実体験から「コーダ」の生活や現状、それに対する想いが綴られています。
そもそも「コーダ」「ろう者」とはどんな人のことなのか?
あなたも無意識下で差別しているのかも…?
「知れてよかった」と思えるような、読んでおいて後悔しない本でした。
書籍の概要。そもそも「コーダ」とは?

この本は「コーダ」である著者・五十嵐大さんの実体験や、そこから感じたことが綴られた本です。
コーダというのは
「耳が聴こえない、あるいは聴こえにくい親のもとで育った、聴こえる子どもたち」
です。
聴こえない(聴こえにくい)のが片親だけ・両親共どちらでもコーダですが、著者・五十嵐さんは後者。
故に小さい頃から母親への通訳をするのが当たり前の環境で育ってきました。
(インターホンや電話に出て手話等で母に通訳するetc……)
「ろう者」とは?

ろう者(漢字で書くと聾者)とは「耳が聴こえない人」のことです。
著者の両親はろう者でした。
聴覚障がい者と言った方が分かりやすいですが、先天性(生まれた時から不自由)と、後天性(何かの後遺症等でなった)があります。
ろう者は差別や偏見に苦しまされてきた歴史があり、その最たるものが1996年まで残っていた「優生保護法」。
これは「障がい者が子孫を残さないように強制的に中絶・不妊手術を受けさせられる」という悪法ですが、
ろう者の夫婦からコーダ(聴こえる子供)が生まれる割合は9割という統計もあるようで……
勝手な思い込みや「聴こえる方が幸せ」という色眼鏡がいかに罪深いかを、思い知らされます。
他者からの「眼差し」が壁

幼少期からしているため、両親の通訳が「あたりまえ」だった著者。
しかし壁になったのが、他者からの「眼差し」だと言います。
「偉いね」「大変だね」という言葉に、自分が「普通ではない」と考えさせられ……
「そうなのだろうか…」という疑問がコーダたちを苦しめていく…
子供時代に他者の視線が悪い影響を与えた結果、時には親の聴覚不自由を隠すようになってしまう。
そんなこともあるそうです。
手話取得の問題や難しさ

ろう者にとって手話は第一言語のようなものだといいます。
けれど祖母が「手話なんて世の中で役に立たない」という考えだったために、手話をしっかりと学ぶ機会が得られなかった著者。
この結果親との「共通言語」が失われ、「自分もろう者になりたい」という方向に考えがいきます。
また、一口に手話と言っても「日本手話」と「日本語対応手話」の二種類があることを知ってましたか?
ろう者が使うのは「日本手話」。
日本手話には「目で見る言語」ならではの構造があり、これを母語とするろう者にとって、日本語の読み書きは難しいのだそうです。
日本語の文法が英語の文法と違うように、落とし込みにくいところがある…と想像しましょう。
だからこそニュース番組では字幕があるにもかかわらず、手話通訳の人も必要になってくる……
このあたりの無知はなかなか恥ずべき事かと思いますし、
「SNSで流行りに乗ってろう者に伝わらない「手話歌」を歌うのは違う」という考えも、理解していきたいと思います。
感想①口にしない方がいい言葉

読んで印象深かったのは、「小学生にあがって関わる人が増える頃、他人からの言葉で自分が普通ではないと考えてしまった」という箇所。
分かりやすい憐れみの視線や嘲笑は論外にしても、善意・いたわりの言葉がマイナスに作用してしまうのは悲しいことなので、丁寧に考えたい部分だと思いました。
幼い頃というのは上手く言語化することもできず、見識が浅い故に周囲に相談していいことなのかも判断がつきにくいと思います。だからこそ大人より繊細になってしまう……
本書で登場したのは、悪意のない「頑張っていて偉いね」という言葉でした。
これに「自分は偉い!特別!」とポジティブに考える子供ばかりだというのは希望的観測で、「普通じゃない」と気づいてネガティブに抱え込んでしまう子供がいるのも、確かに想像がつきます。
ならば実際に何を言わないようにすればいいのか?何を言っていいというのか考えていくと……
やはりそういう子こそ、「他の子供と全く同じように扱う」というのが大切なのだと思います。
「他と違う」というのは大人からしても「自分とは違う」というだけで、全国には彼と同じような状況の子供が多数いることでしょう。
それを承知した上で、コーダも他の子と同じように接する。
「頑張っていて偉いね」という言葉は、その子が現在の環境に苦しんでいる場合、注意深く観察して良い影響を与えそうなら言う…くらいの慎重さを要する発言なのではないかと考えました。
感想②無意識で差別していないか

そして一番心に突き刺さったのが「手話を(一言語ではなく)福祉ツールとして考えていないか?」ということ。
手話を第一言語といている人たちにとって「ボランティア活動したいから手話を覚えたい」というのは微妙なところがある、という記述です。
確かに、例えば英語を勉強するとしては「仕事に必要だから」「海外旅行を楽しむため」など、あくまで自分の為のものが挙げられるでしょう。
「ボランティアをするため」というのはごくごくわずかなはずです。
だから「弱者であるろう者を助けたい」という、手話という言語を学ぶ姿勢自体が上から目線ではないか…
確かに…確かにそうですが、しかし難しい問題です。
もしその理由を禁止した場合「手話を勉強する理由」が減り、手話を学ぼうとする人は減るのではないか……それは良いことなのか?という疑問も生まれます。
ここにはまだ私が知らない情報…例えばボランティアで手話を学んだ人の貢献度、ろう者が本当に助かっているのか?あたりの実感が大切になってくると思います。
きっかけがボランティアだとしても興味が持つ人が増えることは良いことかなと思う反面、逆にろう者に対していい加減な態度を取る層も増えたりするのでしょうか…?かなり気になるところです。
兎に角、私たちは「言語である」というリスペクトを忘れないよう刻んでおきたいです。
「学ぶ必要はない」と決めつけないこと、そして正確に使えるように努力を重ねることなど、それはどの言語を学ぶにしても変わらないことなのだと思います。
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